お知らせ

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2011年8月28日 京都新聞の一面に粟野菊雄院長の記事が掲載されました。

粟野菊雄氏 支援は日常生活の中に

大津波でほとんど土台だけとなった陸前高田の街に命の気配は無かった。街外れの未(いま)だ海水が漬(つ)いている道の傍らには瓦礫(がれき)が積まれ辺りは腐った魚腸の様な塩辛く甘ったるい匂(にお)いに満ちていた。たくさんの蠅(はえ)が飛び交っていた。

 近郊にボランティアセンターが設けられ、丘の中腹は自衛隊の車列と大きなテントで埋まっていた。街では瓦礫の間を自衛隊や警視庁の装甲車両が走り抜け、街道を福岡県警の車や大阪府警パトカーの縦列が過ぎて行った。悲惨な現実から目を逸(そ)らさず正面から立ち向かう力を前に襟を正す思いがした。

 一方、被災者が寿司(すし)詰めになって生活する体育館を仮想現実感(バーチャルリアリティー)の世界での出来事であるかの如(ごと)く素通りして全(すべ)てを「見た」つもりになって帰った人もいる。

 また、”「見えない」事は、無かった事だ”と強弁するかのように高速鉄道の事故後、日を置かず追突車両を地中に埋めた国もある。これらは”意図的な視覚失認(しかくしつにん)(見る事は出来るがその性質と意味を評価できない事)”であり、この時”実物をありのままに見て的中した対応をする事”も一緒に土に埋めた事を当局は分かっていたのだろうか。「見る」というのはそんなにも軽い事なのだろうか。「見た」事はそれに引き続く感情と行動で完結する。

 津波の約1カ月後、小さな袋を手に寒い瓦礫の浜を彷徨(さまよ)っている中年女性の後ろ姿が4月10日の「岩手日報」に載った。彼女は配給されたわずかなパンやお握(にぎ)りを夫と分け合って食べようと未だ帰らぬその姿を求め続けていた。被災地から遠く、日常性でしか動けない者がこの写真を見て何が出来るのだろう。

 いま被災地を支えようと各地から人が集まり働いている。その人達も夫々(それぞれ)の家族・地域・国家、社会全体から支えられている。現地に行けぬ者でも出来る事はある。行動は日常生活の中にある。仮設住宅で被災者が言った。「人が人にこんなにも優しくなれる事をこの年になって初めて知った」と。

 命への本物の優しさとは何かを問いながら個々の行動が国全体に波及していく過程で、調和の世界が再構成されていく。かつて無数の人間が実物を見て感じてその手を動かして作り上げた街と文化が蘇っ(よみがえ)ていく。

 紙面を借り被災地に行く機会を下さった青森県・京都府両保険医協会に謝意を表する。
(あわの診療所長)
[京都新聞 2011年8月28日掲載]
2011年8月28日
京都新聞
あわの・きくお 京都大農学部、金沢大医学部卒。フランス政府給費留学(神経病理学)。千里金蘭大客員教授。精神科専門医指導医、労働衛生コンサルタント。

2010年10月24日 京都新聞の一面に粟野菊雄院長の記事が掲載されました。

粟野菊雄氏 命支え合う京の「露地」

 火宅(かたく)(煩悩)を出て迷悟ともに命の真実として我を休止した静謐(せいひつ)な境地を「露地」と言う。京の街、路地の奥に露地を見た。

 ある路地奥の家でおばあさんが寝たきりとなり往診を始めた。”娘さん”が用意する盆には小さな器が並び、おひな様の膳(ぜん)のようだった。中にはそれぞれ違うペースト状の物が入っていた。一つ一つの味と香りを楽しみながら食べられるために、食材・料理の個性を損なわない順でミキサーにかけたものだった。その家では静かに時が流れ、主人は一日中背をかがめて作業台に向かっていた。

 夕げのちゃぶ台はその家の主人、主婦、隠居したしゅうと、子供たちが囲んでいた。そこに”娘さん”の姿は無かった。何度目かの往診の時、例の女性が路地の隣人だと知った。子供時分から自分を慈しんでくれた人が病んで床に臥(ふ)したとき、隣人は介護の一翼を担い始めた。親しいとはいえ、日々の他人の出入りにもかかわらず家族の日常はよどむこと無く流れて行った。症状は安定し十年一日の如(ごと)くに4年半が過ぎた。ある日、容体が急変した。往診用具だけの開業医に打つ手は無く救急搬送を依頼した。おばあさんは搬送先の病院で亡くなった。

 最新の技術と情報にあふれた豊かな社会が高度な文化社会であるかのように喧伝(けんでん)されている。しかし、最新技術の精緻(せいち)さは、あくまで道具の精緻さであり、それを生み出し使用する人間たちの文化の高さを意味するものでは無い。道具や情報を命のため縦横に使い得て初めてその社会の文化度は高いと言える。また、成員のあり方、命に向けた役割分担が精緻である事も高度な文化であるための要件である。地下700メートルに33人が閉じ込められた避難シェルターでは、発見前の絶望的状況下でも数日間で、互いの命を支え少ない食糧を分け合う関係が作られたという。これは優れた指導者、幾人かの配役と他の成員からなる稀有(けう)で高度な文化社会である。

 「配役」とは本来、禅宗寺院で割り当てられた役位を意味する。己に与えられた配役に徹することは修行であり悟りそのものであるという。文化社会とは、個々の命が配役に浸りきって互いに命を支えあい、己も全体も生き生きと輝くことを目指す努力を保障するシステムである。  寝たきりの女性、隠居した夫、家業に励む主人、家事にいそしむ主婦、無償で他人の食を整える隣人、皆が淡々とおのおのの分を守り配役に的中していた。路地の奥に露地を見た。
(あわの診療所長)
[京都新聞 2010年10月24日掲載]
2010年10月24日
京都新聞
あわの・きくお 京都大農学部、金沢大医学部卒。フランス政府給費留学(神経病理学)。千里金蘭大客員教授。精神科専門医指導医、労働衛生コンサルタント。

2009年9月20日 京都新聞の一面に粟野菊雄院長の記事が掲載されました。

粟野菊雄氏 文化の優しさ 何処に消えた

 昔、リヨンで人脳研究をしていたころに下町のアパートに住んだ。帰宅はいつも真夜中を過ぎ、家族と過ごすまとまった時間は2週間に一度、半日の買い物の時だけだった。異国の街で赤子を抱えてスーパーを往復するだけの家人を、路向いの家に住む夫人が気遣った。

 夫人は地域の訪問看護師だったが、運転する在宅患者移送用バンの後部には、ほとんどいつもシェパードが乗り、外を眺めていた。夫人は唇が火傷(やけど)しそうに短くなったタバコをくわえ急に部屋へ入ってきて鍋の蓋(ふた)を開け一人うなずいていたり、ある日などは言葉に疎い家人の前で、自分のスカートの前を跳ね上げて下着を見せたりしたそうだ。驚いた家人が仏和と和仏の辞典を駆使して理解したのは「ジャポネーズがどんな下着を穿(は)いているのか知りたかったから」だそうだ。

 研究が一息ついたころ、母のがん手術の知らせが届いた。帰国か否か、情と義務のせめぎあいに参っている時、事情を聞いた向いの家族から招待された。所々、床が剥(は)げた部屋の食卓で食事が始まった。

 主人は洗っても取れない機械油に黒くなった手でパンを切り、地下室からラベルが半分剥れかけたワインを出してきて栓を抜いてくれた。長男が生まれた当り年のものとのことだった。見知らぬ国から来た隣人を懸命に慰めようとする夫婦の姿にはホスピタリティーが溢(あふ)れていた。食後の気晴らしに主人の仕事場に誘われた。郊外に果てしなく広がる麦畑の中に小さな工場があった。気晴らしとは麦の穂先に被(かぶ)せたヨーグルト容器を散弾銃で撃ち落とすことだった。

 かつて私たちの国にはホスピタリティーが溢れていた。四季折々移りゆく豊かな自然の中、長い時をかけてはぐくまれた、多様な軸の上から自在に物を見る価値観があった。それは与えられた一期の命に感謝し、誰でもが社会のどこかに自分の止まり木を見出し、己の配役を果たしながら、互いを思い遣(や)る文化を創(つく)った。

 しかし何時(いつ)のころからか「強さ・豊かさは個人主義と適者生存による」という強迫的な誤解と、この一軸教への国を挙げての帰依が社会を蚕食するようになった。全ての人を「強さと豊かさ」だけの順に並べることは必然的にそうでない者、さらには軸に載ることさえ出来ない落後者を生み出す。そこにホスピタリティーは存在しない。私たちの文化の優しさは何処(どこ)へ行ったのだろう。
(あわの診療所長)
[京都新聞 2009年09月20日掲載]
2009年9月20日
京都新聞
あわの・きくお 金沢大医学部卒。フランス政府給費留学(神経病理学)。精神科専門医指導医、労働衛生コンサルタント(労働省)。
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